海外就職という流れ。

僕の勝手な憶測ではあるけど、最近若いうちに海外に就職しようという流れができつつあるのかなと思う。
まだ一歩も踏み出してはいない僕もその流れに乗りたい一人ではあるけど、HAL0213さんの新卒で海外就職 in EuropeやKC@ゆとりさんの「ゆとり」の日本脱出日記を見ていて、おそらく僕と同年齢くらいの人が同じような考えを持って、既に実践しているのを見ると勇気が出てくる。
というか日本にいたところで、トータルに考えて得をするのは年金の問題などを考えるとやっぱり50代以上の世代で、ロスジェネ世代の方は言わずもがな、それより若い世代はお得感が全くない。
だから海外に出るというのは論理的ではないし、日本にいた方が平坦な人生を送れるとは思う。
労働環境などはクソかもしれないけど、(きちんと計算したことはないけど、)現在でもまだ生涯賃金が一番高くなるのは、日本の大手企業で正社員として定年まで雇用されることではないかとも思う。
もちろん途中でリストラされたり、会社が倒産するというリスクはあるけど、それらを含めて考えても、安定を求めるのならば日本の大企業という選択がベストなのかもしれない。
海外に就職しようとするのは単に若気の至りに過ぎず、自分が40代、50代になったときにやっぱり日本に残った方がよかったかもしれないと後悔する可能性も大いにある。
英語が話せないという問題もあるけど、若年層の多くは上記の理由、つまり安定を求めて日本の企業に就職することを選ぶのではないだろうか。

ローリスクで、新卒一括採用制度を辞めさせる合理的な方法って?

話をHAL0213さんの記事↓に変える。
新卒で海外就職 in Europe!: ローリスクで、新卒一括採用制度を辞めさせる合理的な方法 新卒で海外就職 in Europe!: ローリスクで、新卒一括採用制度を辞めさせる合理的な方法
内定をギリギリで辞退するという行為は確かにローリスクではあるけど、ある程度まとまってやらないと効果は薄いし、企業が学生たちの内定ギリギリ辞退に籠められている本当の意味を理解できるかどうかが疑問。
売り手市場の時を除けば企業側と学生側では企業側の力が圧倒的に強いし、かすり傷にもならない可能性がある。
あと、日本人って内定ギリギリ辞退のような社会的に悪そうなことをしたがらない傾向にあると思うので、まとまって動くということ自体難しいと思う。
以前今の就活(就職活動)を潰す。でも書いたけど、就活運営サイト・求人を出す企業側・就活生代表の話し合い(要するに団体交渉)をテレビやネット中継を交えて、公に行うのがいいんじゃないか。
あとはやっぱり就活くたばれデモとか。

妄想

勝手な妄想だけど、ナナロク世代と呼ばれる世代があるように、年代として固まって海外に出ることで、今の日本に新しい道を開くことが可能なのかもしれない。
おそらくは今後海外に就職する人は徐々に増えていくとは思うけど、それでは多くの人に気付かれない可能性がある。
だから、1980年代後半組がそのような世代となってもいいんじゃないか?
以上。
自分は全然動いていないのに・・・。
ホントに口だけ人間だなと思う。

謝罪には二通りある。

最近電車を使うことが多くなった。
今までは基本的に自転車で移動していたので、遅刻した際の原因は、ほとんどの場合自分自身であった。
しかし電車を使うようになって、電車の遅延によって遅刻してしまう、あるいは遅刻しそうになるということがしばしば起こることを実感した。
そこで車掌さんからよく聞くのが、「本日は○○により、この電車は約△分遅れて運行致しております。お急ぎの所、大変ご迷惑をお掛け致します。」のようなニュアンスのアナウンス。
別に遅刻しても問題ないときは、まあ仕方がないかと思うんだけど、予定が詰まっているときの電車の遅延アナウンスは、聞くだけでイライラして、「そんなアナウンスしておいて、どうせ謝る気なんてないんだろ?マニュアル読んでるだけだろ?」などと思ってしまう。
僕は電車遅延に関しては、踏切内での車の立ち往生や非常ベルなどほとんどの場合は鉄道会社側が原因ではないと思うので、鉄道会社を一方的に責めるのはどうなのかと思っている。
もちろん、JRの一部路線はよく遅れることで有名であって、それを解決せずにずっと放っておくのは企業側の怠慢であるし、都市部以外ではJRと並行する私鉄や地下鉄路線がないので、JRでの電車通勤・通学を止めたくても止められないという人がほとんどで、鉄道会社に全く非がないわけではなく、もっと改善すべきところはしてほしい。
まあ日本の鉄道が時間に正確すぎるという噂もあるけど、日本人から見たらむしろ海外(特にヨーロッパ)がおかしいと思う。

謝罪に隠された意味

それで、今日の本題はその電車遅延のときのアナウンスについて。
社会人にとっては常識なのかもしれないけど、こういう謝罪アナウンスって本気の謝罪はしてないんですよね、きっと。
彼らのアナウンスの意味するところは「電車の遅延は謝罪に値する。」ということだと最近思った。
だから、「謝罪」や「申し訳ありません」、「ご迷惑お掛けします」といった類の言葉には、

  • 本当に詫びている。
  • 謝罪に値しますけど謝りません。

の二つの意味があって、電車の遅延アナウンスや企業や団体の謝罪会見はほとんどの場合後者の意味で使われている。
やっと最近このことに気付いて、車掌のアナウンスへのイライラが少しは解消された。
アナウンスの文面通りに解釈すると、謝るくらいなら電車賃返せよって思ってしまうけど、謝罪に値しますなら、「あっそ。」くらいに僕の場合は思える。
以上。
うーん。日本語は難しいね。

なぜやりたいことが見つからないのか。

なぜやりたいことが見つからないのか。
最近そればかり考えている。
今のところの結論は、やりたいこと(人生の目標)とできることが解離しているからではないかということ。
たぶんほとんどの人がそうだと思うけど、本当に自分がやりたい人生の目標って曖昧か不可能に近いかどちらかだと思う。
「世界の貧しい人を救いたい」「世界初の発見をしたい」などの目標は、目標達成までの道のりは何通りもあるし、客観的にその目標が達成されたかどうかを判断するのは難しい。
例えば、「世界の貧困をなくしたい」と思っている人は、募金をすることでその目標の一部を達成することになるけど、本当に貧困が解消されているかはわからないし、募金をするだけでは単なる自己満足に終わってしまう。
この目標設定の点で楽だと思うのは、「プロスポーツ選手になりたい」とか「芸能人になりたい」といった類。
なぜなら、これらの目標達成までの道のりは限られているし、プロスポーツ選手なら契約で、芸能人ならテレビや雑誌への掲載などで、客観的に目標達成が確認できる。
だから彼らはその限られた道のりを歩いてor走っていくだけでいい。
もちろんその道のりは大変だろうし、途中でドロップアウトする人も大勢いるだろうけど、目標達成という観点だけで見れば「○○(職業名)になりたい」系の目標は曖昧or不可能に近い目標に比べたら、楽なのではないかと僕は思う。
僕が言いたいのは、「○○になりたい」系の目標は、「世界の貧しい人を救いたい」「世界初の発見をしたい」といった目標に比べたら、階層がワンランク下だということ。
アニメやマンガの主人公のようになりたいというのはあるけど、現実世界では、僕はなりたい職業とか憧れる有名人というのが今までない。
だからいつも曖昧or不可能に近い目標(やりたいこと)ばかり設定して、どうすればいいんだよっという状況に陥っている。

ではどうすればいいのか。

一般的に言われているのが、

  1. 目標のランクを下げる。
  2. 目標までの道のりを明確化する。
  3. 目標達成までの各段階の目標(小目標)を決める。

などだと思うんだけど、これって解決策になってないよね。
これらができないから悩んでるのに。
この際、人生の目標なんて決めずに、ただ漠然と生きるというのもありなのかな。
正直言って一般人のほとんどは、人生の目標を決めていたとしても、目標を達成する気はさらさらないっていう感じだし。
でも、一度きりの人生だからやりたいことをやってみたいとも思う。
特に30代、40代になったらやりたいことができるとは限らないしね。
以上。
結局こういう類の悩みって人類永遠の問題だったりするんだろうな。

海外に出ることの意義

今までは何となく気になることをブログに書いてきたけど、自分の気持ちを整理するために今日は書こうと思う。
まあ昨日の天職の記事も気持ちの整理って言えばそうなんだけどね。

海外に出ることの意義

僕にとって海外に出ることは、「ハレ」or「ケ」どちらかと聞かれたら、間違いなく「ハレ」である。
僕は正直日本国内の旅行なんて、どこに行っても同じような店があり、同じような外観の家が並んでいる日本のどこが楽しいかさっぱりわからない。
個人的にはお寺や神社なんて京都や奈良に行かなくても地元のでいいとさえ思っている。
唯一国内旅行していいなと思うのはホテルなどに泊まるので、旅行している間は家事もせず綺麗な部屋で生活できることくらいだ。
海外でもやっぱり同じ国の中ならば、日本と同じようにどこでも似たような雰囲気になっていると感じるけど、やっぱり国間では大きく違うわけで、僕はその雰囲気を感じることがすごい楽しいし、ワクワクする。
日本だと少し遠出しても、ストレングスファインダーの「慎重さ」が原因なのか知らないが、僕の知り合いの知り合いがいる可能性が少しはあるので、何となく素の自分を出せないけど、海外だったらその可能性は著しく小さくなるので、何か素の自分が出せそうな気がしてくる。
実際、素の自分が何かと聞かれても答えられないけど、普段の生活で抑圧していたモノが海外に出ると取れる感じがする。
僕にとって海外はそんな所。

隣の芝生は青いのか?

よく就労環境などで日本はおかしい↓と言われているけど、本当は隣の芝生が青く見えるような感じがするだけではないかと思う。
科学者満足度:デンマーク1位、日本最下位 英誌調査 - 毎日jp(毎日新聞) 科学者満足度:デンマーク1位、日本最下位 英誌調査 - 毎日jp(毎日新聞)
でも、ホントに日本がおかしい、又は日本人がおかしいのではないかと思うときもある。
僕は正直言って日本の雰囲気が好きではない。
今の自分では難しいけど、海外に永住できるものならしてみたい。
海外なら僕の素が出せて、充実した人生が送れるかもしれない。
僕は海外ではできる人間になれるかもしれない。
そんなことは単なる妄想に過ぎず、実際海外でのたれ死ぬだけかもしれないし、そもそも日本の一般的なレールから離れるためには相当な勇気が要る。
この不安と期待の中で、毎回不安の方が勝ってしまい、海外永住&就職なんて無理なんだろうなと思ってしまう。
どうすれば不安よりも期待を大きくすることができるのだろうか。
↓の本を読んで、この方はどうしてここまで行動力というか爆発力があるのだろうかと思ってしまった。

裸でも生きる――25歳女性起業家の号泣戦記 (講談社BIZ)

裸でも生きる――25歳女性起業家の号泣戦記 (講談社BIZ)

この方と僕とでは一体何が違うのだろうか。
よく思うのは、僕には人生の目標が無い。
今まで頑張ったこともないし、ただ悠長に生きてきただけだ。
どうすれば人生の目標を設定することができるのだろうか?
この疑問にいつも終着してしまう自分がいる。
僕だって社会を良くしたいと思うし、貧しい人を救いたいという気持ちはある。
でもこんな漠然とした気持ちを僕は人生の目標にはできない。
そこが自分の嫌なところ。
以上。
精神的に病んでるな。こりゃ。

天職について考えてみた。

以下、自分の脳内整理のためのメモです。
脈絡のない文章ですが、お付き合い頂ける方はどうぞ。
一応天職とは何ぞやということをYahoo!辞書で調べてみた。
Yahoo!辞書によると、天職とはその人の天性に最も合った職業のことらしい。
うーん、僕の思う天職とは微妙に違う気がするので、ここで天職について自分の定義を書いておく。
定義なんて人それぞれだと思うので、ここでは自分にとっての天職の定義を書く。
曖昧だけど、天職とはその仕事に自己、そして他人が満足できるかどうかの問題だと僕は思う。
自己の満足はそのままの意味だけど、他人の満足というのは世間に如何に認められるかということ。
僕は自分のことを話したくないけど、有名になりたいというちょっと矛盾したような欲求がある。
だからテレビに出ている芸能人やスポーツ選手になりたいとは思ったことがないし、もちろんそんな才能もないと思っているけど、社会にこんな人がいるんだとは思われたい。
天職を見つけるにはどうしたらいいんだろうか?

やりたいことから仕事を決めても、天職は見つけられないと思う。

正直どんなところで働いていても、楽しい仕事(やりたい仕事)と楽しくない仕事(やりたくない仕事)が必ずあるし、学生がこういう仕事をやりたいからこの会社で働きたいと思っても、その会社でホントに自分のしたいことができるかはわからない。
ほとんどの学生は社会経験が無いor浅いので、学生の理想がそのまま社会に出ても通用しないことがほとんどだろう。
だから、やりたいこと(理想)を持つべきだとは思うけど、僕はやりたいことができそうだからという理由で職業や就職先を決めることは、結果としてはよろしくないのではないかと思う。

世間のレールとは違うレールに乗ってみることは大切。

天職を見つけられるかどうかはわからないけど、特にこれからの日本では世間のレールとは違うレールに乗ってみることは大切だと思う。
どのくらい違うレールに乗るかは難しいけど、なるべく人が選ばない方へ行った方がいいのではないか。
有名な人ほど稀有な経験をしていると思うし、逆に稀有な経験をしているからこそ有名になっているのかもしれない。
最初から「誰も選ばないもの」を選べ。それが正解だから。 - teruyastarはかく語りき 最初から「誰も選ばないもの」を選べ。それが正解だから。 - teruyastarはかく語りき
世間のレールとは違うレールに乗るということは自分で判断しなければならないことが多くなる。
結局は自分と葛藤して不安に打ち勝たないと外れられないんだけど、できれば言い訳などの逃げも使えないまでの過酷な状況に自分を持っていくことができたらと思う。
世間とは違うレールである程、その分自己成長ができて、満足することができる。
ただ、世間のレールに合流できなかったらと言って死ぬことはないけど、社会に認められることはないだろう。
要は、

違うレールに乗る→世間のレールに合流する=世間に認められる可能性がある。
違うレールに乗る→世間のレールに合流できない→脱線?=世間に認められない。ただし世間のレールに乗って再スタートすることは可能。

こんな感じだと思うんですよね。

自己満足について掘り下げてみる。

自己満足っていうのは、その仕事をしていて楽しいかどうかではなくて、自分の理想に近づいていることを実感できるかどうかということなのではないか?
だから究極的にはどんな仕事をしていても、理想に近づいていると思うことができたならば、それは天職に近づいているという証拠なのかもしれない。

まとまってないけど、まとめ

まずやらなければならないこと

  1. 理想を明確にする。
  2. 不安を壊せるほどの爆発力(前に進む力)を手に入れる。

以上。

何故かよく分からないけど、どうでもいいこと

今日はどうでもいいことを一つ。
缶チューハイって何でレモンとグレープフルーツが基本みたいになっているんでしょうか。
正直僕は、日本の各メーカーはしっかり消費者を見ているのかなと思います。
もしかしたらこの傾向は若い人だけなのかもしれませんが、どう考えてもスーパーでチューハイを選ぶと、みんな巨峰や桃、あとはカクテル系なんですよね。
もちろん日本酒派や焼酎派の友人もいますけど、レモンやグレープフルーツってそこまで人気があるのかと前から思っています。
僕はチューハイを選ぶときに、意識してレモンとグレープフルーツを排除しています。
以下批判は承知の上で何故かというと、

  • お酒に果物の酸味は合わない。
  • そもそも酸っぱさをお酒に求めていない。
  • お得感がない。

とまあこんな理由です。

お酒に果物の酸味は合わないし、求めていない。

確かにワインも酸っぱいですけど、レモンチューハイやグレープフルーツチューハイの酸っぱさって何か違うんですよね。
うまく表現できないですけど、ワインの酸味と柑橘系チューハイの酸味では舌が感じる部位が違うというかなんというか。
個人的には酸っぱいレモンやグレープフルーツよりも甘いブドウや桃は果物として生で食べやすいから、ついついチューハイを選ぶときにも同じことを考えてしまうのだろうと思っているんですけど、まあ簡単に言うとアルコールを飲むときに、僕は酸味って必要なのかなと思ってしまうんですよね。
酸味よりも甘味の方を人間の本能は求めていますし。
なのでレモンチューハイやグレープフルーツチューハイの味が好きになれません。
別に果物のレモンやグレープフルーツが嫌いというわけではないけど、若者はそんなに酸味を求めていない気がします。

お得感がない。

僕の感覚なので、一般の人がそう感じているか分からないですけど、もし同じ値段でブドウかレモンを買えると言われたら、僕は迷わずブドウを買います。
僕の中ではブドウやモモは高級品というイメージなので、こういうイメージもチューハイを買うときに影響しているのかもしれません。
レモンやグレープフルーツよりも桃やブドウの方がお得だと思うんです!
以上。
勝手な想像ですけど、将来的にはレモンとグレープフルーツがチューハイのコーナーからなくなるんじゃないかと・・・。
まあそれはないか。

日本人は英語をしゃべれないと世界で生き残れないのか?

パナソニック採用の8割外国人 大学生就職深刻になる一方だ (1/2) : J-CASTニュース パナソニック採用の8割外国人 大学生就職深刻になる一方だ (1/2) : J-CASTニュース
一昨日の記事にも書いたけど、おそらくパナソニックの海外採用↑や楽天の社内公用語を英語にするという件から、また英語の話題がたくさん出てきた気がします。
英語が出来ない教師が英語を教えている。 « The Wisdom of Crowds – JP 英語が出来ない教師が英語を教えている。 «  The Wisdom of Crowds – JP
日本企業は「社内公用語=英語」しないともう世界で生き残れない - My Life in MIT Sloan 日本企業は「社内公用語=英語」しないともう世界で生き残れない - My Life in MIT Sloan
英語が出来ない奴をクビにすべき3つの理由 英語が出来ない奴をクビにすべき3つの理由
一昨日は日本にも英語の波が来るのかと言っておきながら、今日は「日本人は英語をしゃべれないと生き残れないのか」ということについて自論を展開しようと思う。

おそらくまだ日本人は英語をしゃべれなくても生き残れる(by個人的意見)

まずはっきりさせたいのは、楽天パナソニックファーストリテイリングのように、日本の企業がグローバル企業を目指すことは、日本の市場がこれ以上大きくならないという時点で当然であるということ。
そして、その目的のために上記の企業が英語を社内公用語にしようとしたり、海外採用を増やすことも当たり前である。
しかし、日本企業がグローバル企業を目指すことと、今後日本人が英語をしゃべれるようにならないといけないというのは別モノだということを忘れてはならない。
英語をしゃべれるようになった方がいいというのは昔から言われていることだし、その重要性が今回の件でまた一歩増しただけのこと。
おそらく、楽天パナソニックはグローバル企業を目指す先駆的な日本系企業であろう。
仮に今の大学生が上記企業に入りたいならば英語能力が高い方がいいと思うけど、僕はまだ今の高校生や大学生は英語をしゃべれなくても逃げ切れる世代だと思っている。
なぜなら、日本の企業は別にTOEIC何点以上の大学生しか取りませんとは公には言っていないし、今後楽天パナソニックの後に続く大企業の方向性がまだ明確になっていないからだ。
日本の年金にも逃げ切れる世代があるみたいなことが言われているように、今の若者はまだ、英語をしゃべれなくても逃げ切れる世代ではある。
ただし、年金問題で一時期(今も?)日本が荒れたように、いつになるかはわからないけど、本格的に英語の問題が日本を揺るがすようになったとき、私たちがどういう扱いを受けるかは定かではない。

生き残れることand生きること

さっきまでは若者は生き残れると書いたけど、生き残れるから別に英語を勉強しなくてよいという問題ではない。
生き残れるというのは最低限の生活ができるという意味であって、お金を稼ぎたいなら英語をしゃべれた方がいいとはなんとなく思う。
グローバル化とかガラパゴス化とか言われるけど、前にガラパゴス化についてで書いたように、日本もある程度はグローバル化すると思うけど、多様性の観点から見たらガラパゴスの部分も残すべきだ。
だから英語がしゃべれないとのたれ死ぬまではいかない。
なんとか生活はしていけるだろう。
ただ活躍したい、有名になりたいとかを望んでいるのなら、やっぱり英語は大事。
人は誰でも有名になりたい、お金を稼ぎたいなどの欲望を持っているわけで、その欲望を満たすためには他の能力も大事だけど、英語も必要になってくるんじゃないかな。
個人的には今のところそういう結論。
以上。